「考える」とは何でしょうか。
ふと、そんなことを考えていました。
考えるという行為そのものについて考える。少しメタな話です。
因果関係を見出すこと¶
僕の仮説はこうです。
考えるとは、なぜそれが起こったのかという因果関係を見出すことではないか。
雨が降った。だから地面が濡れている。
あの人が怒っている。おそらく、さっきの発言が原因だ。
株価が下がった。金利上昇の影響だろう。
こうして因果を見出すのは、未来を予測するためだと思います。
地面が濡れていれば滑るかもしれない。あの人には謝った方がいい。今は買い時ではない。
因果関係を知ることで、次に何が起こるかを予測できる。
だから人は考えるのかもしれません。
分類という作業¶
では、因果関係を見出すにはどうすればいいのでしょうか。
僕は、まず対象を分類する必要があると考えています。
たとえば、池の鯉と水槽の金魚。
同じ魚でも、行動パターンが違います。
池の鯉は、人が近づくと寄ってくる。
「人間が来た=餌がもらえる」という因果を学習しているからです。
水槽の金魚は、水面を叩くと反応する。
「振動=餌の合図」という別の因果を持っています。
つまり、対象が何なのかを分類することで、適用すべき「因果のパターン」が決まる。
鯉には鯉の因果があり、金魚には金魚の因果がある。
分類を間違えると、予測も外れます。
卵が先か、鶏が先か¶
ここで一つの疑問が浮かびます。
分類が先なのか、因果関係が先なのか。
池の鯉と金魚を区別できるのは、すでに「鯉の性質」「金魚の性質」という知識があるからです。
でもその知識は、過去に観察して因果関係を見出した結果のはず。
結論としては、どちらが先ということはないと思います。
分類と因果関係は相互に絡み合っていて、経験を通じて強化されていく。
分離できないものなのかもしれません。
初めて見るものをどう考えるか¶
では、分類できないもの——初めて見るものについてはどうでしょうか。
僕の考えでは、人は既存のカテゴリに当てはめるのだと思います。
ただ、これは「無理やり」というよりも、多くのカテゴリを知っていれば、いくつかの特徴を見出して近いものに当てはめられる、ということです。
見たことのない魚でも、「ヒレの形からスズキ目っぽい」「体型から沿岸性だろう」と推測できる。
それは「スズキ目の性質」「沿岸性の魚の性質」というカテゴリを持っているからです。
つまり、カテゴリを多く持っている人が、よく考えられる人なのではないか。
これは単純な知識量の話ではありません。
同じものを見ても、「魚だ」としか思わない人と、「スズキ目の、おそらく若い個体だ」と見る人がいる。
後者は分類の解像度が高い。
その解像度の違いが、思考の深さの違いになるのかもしれません。
「感じる」は作られたもの¶
ここで少し話を広げます。
「考える」と「感じる」は違うものでしょうか。
熱いものに触れて手を引っ込めるのは反射です。
でも「この鍋は熱そうだ」と判断して触らないのは思考。
この違いは、因果関係の適用として説明できそうです。
では、「この景色は美しい」と感じるのはどうでしょう。
僕は、「感じる」もまた作られたものだと思っています。
身体的な反射——熱い、痛い——は遺伝的なレベルの話です。
でも「美しい」「心地よい」「不快だ」といった感覚は、社会的な経験やイデオロギーに強く依存している。
「この構図は美しい」と感じるとき、実は「こういう構図・色彩・光は美しいとされる」という、社会的に学習したカテゴリに目の前の景色を当てはめているのではないか。
そう考えると、「感じる」は意識されない高速の「考える」とも言えそうです。
正しい分類は存在しない¶
ここまで考えてきて、一つの結論に至りました。
正しい分類は存在しない。
分類の仕方自体が、環境によって作られるからです。
地理、気候、リソースの配分、歴史的な経緯。
そういったものが、人々の価値観を——つまり「何をどう分類するか」を——形作っている。
だから、同じ現象を見ても、人によって「考えた結果」が違う。
それは「どちらかが間違っている」のではなく、適用しているカテゴリ体系が違うだけなのかもしれません。
物理学に絶対的な座標系がないように、思考にも絶対的な「正しい分類」はない。
これを「思考の相対性」と呼んでみたくなります。
考え続けること¶
結局、「考える」とは何か。
僕なりの答えはこうです。
考えるとは、対象を分類し、因果関係を見出し、未来を予測すること。
その分類は経験によって作られ、環境によって形作られる。
絶対的に正しい分類はなく、だから絶対的に正しい答えもない。
人は考えます。
より良い分類を求めて、より正確な予測を求めて。