夜のパリの噴水。セルリアンブルーのセーターが宙に浮かび、その下で携帯電話が水しぶきを上げて沈んでいく

『プラダを着た悪魔』を観ました。

2006年の映画です。ファッション業界を舞台にしたサクセスストーリー、あるいは働く人のバイブル。
一般的にはそう紹介される作品ですが、観終わったあとに残ったのは、そういう爽快感ではありませんでした。

一番心に引っかかったのは、主役のアンディでも編集長のミランダでもなく、アンディの恋人のネイトです。

観たあと、AIを相手に議論しながら考えを整理しました。
終わってみると、観ている最中に立っていた場所から、ずいぶん遠くまで動かされていました。

なお、以下は結末に触れます。

ネイトは何に奪われたのか

ネイトは物語の間、恋人のアンディがどんどん変わっていくのを見せられます。
服装が変わり、帰りが遅くなり、誕生日をすっぽかされ、最後にはパリに行ってしまう。

引っかかったのは、彼が「アンディの夢」に負けたのではない、というところです。

もしアンディがジャーナリズムの仕事に没頭して電話に出ないのなら、ネイトは苦しみながらも敗北を受け入れられたはずです。
尊敬できる敵に負けたのですから。

でも実際に彼女を奪っていったのは、彼女自身が「くだらない」と言っていた世界でした。
本人が欲しいとすら思っていなかったものに、恋人を持っていかれたのです。

しかも敵に顔がありません。
ミランダ個人ですらなく、業界という顔のないシステムです。抗議の宛先が、どこにもないのです。

彼は被害者です。
観ている間、私はそう結論づけていました。

アンディは選んでいたのか

では、奪ったのは誰なのか。アンディ本人なのか。

そう単純ではないと気づかせてくれるのが、有名なセルリアンブルーのセーターの場面です。
ファッションを見下すアンディに、ミランダが静かに言い放ちます。あなたが自分で選んだと思っているそのセーターの色は、何年も前にこの部屋にいる私たちが選んだものよ、と。

前半のアンディは、選んでいるようで選んでいません。

拒絶するには、そこから拒絶するための足場が要ります。
自分が何を大切にしたいのかまだ分かっていない人間には、実は拒否権がありません。あるのは流されるか流されないかだけで、それは自由とは呼べない気がします。

エーリッヒ・フロムに『自由からの逃走』という本があります。
自分というものが未形成な人間にとって、自由は歓びではなく不安であり、人は権威への服従に逃げ込む——という内容です。
ミランダの要求に完璧に応えていく前半のアンディは、成長しているようでいて、この「逃走」をしているように見えます。

「いいえ、あなたは選んだのよ」

転換点はパリの車中です。

同僚のエミリーを踏み台にしたことについて、アンディは「仕方なかった、選択肢がなかった」と言います。
ミランダは即座に返します。「いいえ、あなたは選んだのよ」。

セーターの場面では「あなたは選んでいない」と言い、車中では「あなたは選んだ」と言う。
矛盾しているようで、この二つのセリフはアンディの変化の始点と終点を挟んでいます。

何も持っていなかった人間が、結果を出し、代償を目撃し、「選んだことにされる」ことで、初めて選ぶ主体になる——そういうことなのかもしれません。

だから、携帯電話を噴水に捨てるあの有名なシーンは、成功の拒否ではないのだと思います。
彼女の選択と価値観が、初めて同じ方向を向いた瞬間に見えました。

自由の獲得費用

そう考えると、この映画は「自由を行使する話」ではなく、「自由という能力を獲得する話」です。

そして、獲得にはお金がかかります。
ネイトは、アンディが自由を獲得するための費用を、同意なしに支払わされた人でした。
被害者と呼びたくなった理由は、たぶんここにあります。

私がこの映画を誠実だと感じたのは、最後に二人を復縁させないところです。

もしこれが「システムに奪われた恋人が、自分を取り戻して帰ってくる話」なら、脚本の定石として彼女をネイトの元に返すはずです。
返しませんでした。

帰ってきたアンディは、ネイトが失ったアンディとは別人だからです。
彼が愛したのは、まだ自分を持っていなかった頃の彼女で、彼女が自分を持った瞬間、あの関係そのものがサイズに合わなくなってしまったのです。
奪われたものは、返せません。

ただ、映画はネイトにも小さな出口を用意しています。
彼はボストンの料理人の職を選んで街を出ます。彼もまた、アンディの周回軌道を降りて、自分の側の選択をしたのでしょう。
再会シーンの「何とかなるかもね」という曖昧な言葉は、復縁の予告ではなく、それぞれが自分の支払いにサインした者同士の挨拶に聞こえました。

被害者だ、という最初の結論は、ここで崩れました。
支払わされた費用は本物です。それでも彼は、最後には支払う側に回っています。

以前の定義への修正

以前、自由とは何かについて書きました
そのときの結論は「自由とは思い通りにできること」でした。

この映画は、その定義に修正を迫ってきます。

作中で最も強いコントロール能力を持つのはミランダです。
雑誌も、業界も、人事も、彼女は完全に支配しています。
その彼女が、パリのホテルで化粧を落とした顔で、離婚報道だけはどうにもならないと語ります。

支配の頂点に立った人間ですら、コントロールできないものがあります。
愛と野心、家庭と頂点。世の中には、うまくやれば両立できるのではなく、原理的に相容れないものがあるのかもしれません。

思い通りにできることが自由なら、ミランダは世界で一番自由なはずです。
そうは見えませんでした。

自由とは、思い通りにすることではなく、何を支払うかを自分で決めることではないでしょうか。

二つの「そういうものだ」

「人生ってそういうものだ」という言葉があります。
この言葉には二つのパターンがあります。

選ぶ前に言う「そういうものだ」は、諦めです。
車中のアンディの「仕方なかった」と同じもので、自由の放棄の告白に聞こえます。

選んだ後に言う「そういうものだ」は、引き受けです。
支払いを済ませた人間の言葉です。

言葉としてはほとんど同じなのに、中身は正反対です。
『プラダを着た悪魔』が描いているのは、アンディが前者から後者へたどり着くまでの過程です。

ネイトは残念でした。それでも、人生ってそういうものかもしれません。
この一文を、諦めではなく引き受けとして言えるようになるまでの110分だったのだと、いまは感じています。

次に観るときは、ナイジェルとエミリーを見ることになる気がします。
彼らは彼らの人生を生きています。
ナイジェルは、とうの昔に自分の支払いにサインを済ませた大人に見えるからです。