科学と工学の違いを、純粋と応用で分ける言い方があります。
科学が純粋で、工学がその応用だという整理です。

これ自体は間違っていないと思います。
工学は科学を土台にしていますし、実際にやっていることの多くは科学的です。

ただ、この分け方ではそれが何のためにあるのかが見えてきません。
知りたいのはそちらです。何のためにあるのかで分ければ、自分が今どこにいるのかも分かるはずだと思っています。

もう一つ、前から引っかかっていることがあります。
芸術は学問なのでしょうか。並べてみれば、それも見えてくる気がしていました。

三つ並べると、一つだけ様子がおかしい

同じ文型で並べてみます。

  • 科学 — なぜそうなっているのかを追求する
  • 工学 — 願いを叶える方法を追求する
  • 芸術 — 表現を追求する

上の二つは据わりが良いのに、三つ目だけ落ち着きません。
理由はすぐ分かりました。芸術だけ目的語がないのです。

科学は世界を相手にしています。工学は願いを相手にしています。
では表現は、何を表現しているのでしょうか。

芸術は心の話だった

考えていて、腑に落ちた言い方がありました。
芸術は心の話です。どう感じるかを扱っています。

そう置くと、芸術と呼ばれているものが二つに割れます。

一つは芸術工学と呼べる領域です。
他人がどう感じるかを設計する仕事。UIの配置、色の選び方、音の作り方、ゲームの難易度調整。
これらは全部「こう感じてほしい」を狙って作られています。

もう一つが、表現です。
自分がどう感じたかを、そのまま外に出すもの。誰かの心を動かすために作っているわけではありません。

前者は工学だと思います。他人の心を狙うには予測が要り、予測には再現性が要るからです。
分からないのは後者のほうでした。あれは学問なのでしょうか。技術ですらないのかもしれません。

升目にしてみる

並べ直してみると、二つの軸で収まることに気づきました。
何を相手にするか(世界か、心か)と、それをどうしたいのかです。

知る 思い通りにする
世界 科学 工学
心理学・表現 芸術工学

右の列を最初は「変える」と書いていたのですが、しっくりきませんでした。
変えるのではなく、思い通りにするです。こうあってほしいという意思があります。価値づけの話なのだと思います。

以前、自由とは何かという記事で、自由を「思い通りにできること」だと書きました。
図の右半分は、そのまま自由の話でもあります。世界を思い通りにするのが工学で、心を思い通りにするのが芸術工学です。

左半分には意思がありません。ただ、そうなっている理由を知ろうとしているだけです。

仕様は工学、けれど

図ができたので、自分が普段やっていることを当てはめてみました。
最初に引っかかったのが、仕様です。

仕様を決めるのは工学の仕事だと思います。何をどう作るかを決める作業ですから、これは疑いません。

ただ、その仕様が決まらないことがあります。

やってみないと、自分がどう感じるか分かりません。
保守や運用に入ったとき、それをどう思うかも分かりません。
だから、どう価値づけていいのか迷います。

長らくこれを工学の問題だと思っていました。設計が甘いのだろう、と。
けれど図に照らすと、これは右上ではなく左下の問題です。世界の話ではなく、心を知る話です。

私はだいたい、仮説を立てて証明するやり方で道具を作ります。
モリのメンテナンスも、カメラの機材も、ソフトウェアも同じです。こうすれば良くなるはずだ、と見立ててから手を動かします。
このやり方は左上と右上ではよく効きます。効かないのが左下でした。

「どう感じるか」には仮説が立てにくいのです。立てたところで、作って使うところまで行かないと検証もできません。

望みは、作ってから出てきた

GainForgeというツールを作りました。
最初の動機は単純で、HEIFで圧縮できたら便利ではないか、というものです。仮説としてはこれだけでした。

作って、使い始めてから面白いことが起きました。
それに付随する望みが、自分の中から次々に発掘されたのです。あれもできたほうがいい、これも要る、と。機能を足していって、今では日々使っています。

その望みは、作る前には持っていませんでした。
正確に言えば、持っていたけれど自分から見えていませんでした。掘り出されるまで、そこにあることを知らなかったのです。

工学には望みが必要です。願いがなければ何も始まりません。
けれどその望みは、工学を実行しないと手に入りません。

ニワトリと卵に見えますが、たぶんそうではなくて、最初の一個だけあれば回り始めるのだと思います。
一個の望みで作って、使って、望みが二個増えて、また作ります。
願いが生まれる場所で書いたことも、結局この循環の話でした。

では、学問とは何なのか

そもそも私が知りたかったのは、芸術は学問なのか、ということでした。
ここまで来て気づいたのは、学問はこの四つの升目のどれでもないということです。

図が答えているのは「何のためにあるか」です。
学問が答えているのは、「その成果がどう残るか」です。別の軸なのだと思います。

だから升目それぞれに学問版があります。科学には自然科学があり、工学には工学部があり、芸術工学には感性工学やデザイン学があります。心を知る升目には心理学があります。
表現だけが、学問版を持ちません。

学問とは、知を他人が使える形で残す営みではないでしょうか。
値打ちは積めることにあります。先人の成果に乗って、続きから始められます。ゼロから始めなくていいのです。

そして積むためには、言葉を介す必要があります。
論文を書くのも手順書を残すのも表現ですが、共有された記号——言葉、数式、図——に翻訳するという条件がついています。

つまり学問も表現の一種です。
違うのは媒体で、言葉を介す表現は他人の頭に入るから積めます。

ただ、言葉を介さないのに伝わるものがあります。
体得です。

モリを研ぐ手つきも、絵のデッサンも、言葉にはしきれません。それでも見て真似すれば伝わります。
ただし一対一でしか渡せませんし、時間がかかり、渡すたびに少しずつ変わります。体が動かなければ意味がありません。
これは学問ではなく、技術と呼ぶべきものだと思います。

工学も、この二つを両方持っています。
理屈のほうは論文にも手順書にもなりますが、実際の手つきは体得するしかありません。さきほどのモリがまさにそれです。

そうすると、成果の残り方は三段になります。

  • 言葉で積む → 学問
  • 体で覚える → 技術
  • 残らない → 表現

美術はこの三段を全部持っています。
デッサンは体得できますし、どう感じさせるかは芸術工学として積めます。けれど何を表現するかだけが、どちらにも乗りません。

ゴッホの技法を学んでもゴッホの絵が出てこないのは、技法が伝わらないからではありません。
技法は伝わるからです。伝わらないのは、その先にあるものだけです。

積めるものが偉いわけでもありません。
積めるということは、その人でなくてもよいということでもあります。

分類して、何が変わったか

解像度が上がることで、人が何を望んでいるか分かるようになる。そう期待してこの分類を始めました。

いまのところ効いているのは、詰まったときの自己診断です。
手が止まったとき、それは分かっていないから進まないのか(左上)、作り方が分からないから進まないのか(右上)、それとも自分が何を欲しいか決まっていないのか(左下)。

三つ目を工学の問題だと誤診すると、いくら手法を調べても抜けられません。
そういう時間を、私はそれなりに過ごしてきた気がします。

願いを叶える力をいくら磨いても、願いを知る力は上がりません。
別の升目だからです。

では他人の望みはどうすれば分かるのか。
心理学として積まれた知識はありますし、それは使えるはずです。ただ、目の前のこの人が何を望んでいるかは、たぶんそれだけでは届きません。GainForgeで自分の望みが発掘されたのと同じで、作って、渡して、使ってもらうところまで行かないと見えないのだと思います。

自分の望みすら掘り出すのに一つ作る必要があったのですから、他人のぶんとなればもっとかかるのでしょう。
それでも、どの升目の問題なのかが分かっているだけで、だいぶ違います。